M YATAKE
矢岳真幸の脇道・寄り道・まわり道
鉄道懐古篇

circle須賀貨物線終点と豊島橋、江北橋
須賀貨物線と聞いて涎を垂らすのは相当な通(トワイライター?)である。その終点の様子を私は見たことがある。池袋駅と東武伊勢崎線の西新井駅を結ぶバスがあった。たしか都営20系統、一部が東武バスで日に数本の草加行もあった。当時はボンネット型バスで女車掌が乗務していた。この路線は現在もあるが一部ルートが変わっている。バスは池袋駅から明治通りを北上し王子駅を経由する。その先で明治通りは右へ曲がるがこのバスは直進し狭い通りを行く。川っ淵のどん詰まりが現在豊島五丁目団地になっている。

嘗てここには化学工場があった。当時このあたりに来るといつも異臭が漂っていた。それが何なのかは判らないが、工場の排煙か廃液か何かに含まれるのだろうか、化学コンビナートの独特の嫌な臭いだった。その裏門のような所の脇をこのバスは通っていた。その門のすぐ奥にはいつも黒いタンク車が何両か連なって停まっているのが車窓からちらりと見えた。何本ものパイプがその頭上を走っていた。脇へ入る未舗装の道もあり三輪トラックが工場の奥へと走って行くこともあった。夜間ここを通ると街灯もまばらで薄気味悪く、何か秘密めいた雰囲気が漂っていた。タンク車の黒光りする胴体が得体の知れない怪物のようで、子供の目には何か恐ろしい場所のように見えた。バスが早く通過しないかと気が急いたものだ。

門の所を過ぎると工場の薄汚れたコンクリ塀が長く延び道路が沿っていた。道路は荒川(隅田川の上流)の土手下で、この道路は団地の用地となり今はない。バスはそこを辿った。その先の川が大きく蛇行する所に旧豊島橋があった。橋を渡ると今度は荒川放水路の土手を登る。ここに旧江北橋が架かっていた。この橋は木橋で相当老朽化していたらしい(あるいは仮橋だったのかもしれない)。廃止前の一時期、重量制限があるらしく乗客は橋の手前でバスを降ろされ、徒歩でぞろぞろと橋を渡った。その脇をバスがゆっくりとすり抜けて行く。夜間は煌々と電球が連なっていた。客は対岸で待つバスに再び乗り込んだ。下流側では新橋が工事中だった。橋の足立区側、土手下の三叉路脇が荒川土手の停留所で、円盤の付いたポールの脇には薄汚い待合い小屋があった。足立区に入ると道路は低地帯の砂利道となりバスは終点まで埃を巻き上げて走った。

今から三十年以上前に豊島橋も江北橋も旧橋は廃止され、下流に新しい橋が架けられている。したがってバスのルートも変更になった。工場も団地に代わり、あの暗く陰鬱な雰囲気も異臭も、高層アパートの明るい風景に一変した。

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